駐在員雑感(第1回)「魔都上海」

2004年4月1日福島空港から上海へ赴任し、早いもので半年が経とうとしている。
生活に少々慣れてきたせいか、最近ふと以前駐在していた頃の上海と今の上海を比べ、昔を懐かしいと思うことがある。

私は97年から99年まで上海で仕事をする機会に恵まれ、家族帯同で上海に暮らしたことがある。その頃はまだ日本人の数も5,000人程度(領事館登録ベース)と少なく、外国人が住める場所も制限され、日本料理屋も大変少なかった。
我が家の週末の楽しみといえば、その数少ない日本料理屋で、高くてまずく、寿司(寿司といってもネタはサーモンとイカが多かった。)を食べることだったように覚えている。
そのせいか当時幼稚園だった娘が、友達と寿司のおもちゃを作ったとき、その色が全部オレンジ色だったことには、妻と2人で複雑な心境であったことを今でも覚えている。
また、バスもクーラー付のバスがなく、赴任した年の夏に中国で初めて上海にクーラー(中国語でクーラーは「空調」という。)付のバスが走りだし、中国中で話題となった。
料金は、空調車は2元、空調なしは0.5元だったと思う。街にはまだ多くの自由市場があり、鳥、蛇、蛙、魚を生きたまま売っており、その生きた鶏をバイクの荷台に縛り付けて帰ってゆく人をよく見かけた。
歩道の上には物干し竿が突き出し、そこには無造作に女性の下着が干してあり、場所によっては、道路の街路灯を利用して洗濯物がぶら下がっていた。
道端ではマージャンやトランプをしたり、お年寄りが日向ぼっこをしていたりといった風景がいたるところにあった。

あれから5年、今年4月に赴任した上海は、一部に当時の風景を残しつつも、全くの別の世界へと変身していた。超高層ビルは以前にも増して多くなり、18階建て以上のビルは3,000棟といわれ、延安路の高架道路は外灘まで開通し、9月には新たに黄浦江(揚子江の支流の河)の下を通る復興路の随道も完成した。地下鉄も郊外まで延び、空港まではリニアモーターカーが走っている。日本人の数も25,000人で、上海日本人学校は1,700人(小学校、中学校合計)以上の生徒を抱え、世界中の日本人学校で2番目に大きいという。
至る所に日本語の看板があり、日本料理屋も400件とも500件ともいわれている。
路地裏では相変わらず無造作に干された洗濯物を見ることはあるものの、本当に隔世の感がある。この5年間で格段に上海は発展している。
この膨張し続ける現代「上海」は、どこか1920年代の村松梢風が綴った「魔都」と呼ばれた時代の上海と似ているような気がしてならない。

当時は7,000人を越える日本人が生活し、イギリス人より日本人が多かったとの記述もある。一旗上げようと意気込む人、日本には住めなくなりやむなく上海に逃げてきた人等、様々な人間模様が渦巻いており、それゆえ上海は「魔都」と呼ばれたのであろう。
そして、現代の豊かになり大きな消費市場と化した上海もまた、1920年代と同様の思いを胸に、多くの日本人が夢を抱いてやってきているのではないだろうか。
不思議な魅力がある上海、現代の「魔都」上海。この街に翻弄されないようにしっかり地に足をつけて進んでゆきたいものである。

2004年10月13日
 福島県上海事務所 安達和久